縮小都市データベース

青森・弘前

立命館大学政策科学部 吉田友彦

コンパクトシティの先駆的事例としての青森市

 「青森」と「コンパクトシティ」をキーワードとして新聞データベースを見たところ、最も古い日付でヒットするものは、1997年に当時の青森市長が掲げた「コンパクトシティ構想」であった。記事によると、当時の佐々木市長の発案で、新しい長期総合計画「21世紀創造プラン(1995年)」の中に、青森駅周辺に都市機能を集中させ、民間主導型で駅前を活性化することをうたっているという。第一種再開発事業によって建設された駅前の通称「アウガ」ビルは2001年にオープンし、この政策を象徴する事例となった。一時は来客数が年間600万人を超え、コンパクトシティの成功事例として一躍有名になったものの、その後、大手ポータルサイトの新聞記事にも取り上げられた通り、浪岡町との合併、市長の落選、テナントの撤退などを経て、2018年1月までに1階から4階までが市役所機能に転用されて現在に至っている。駅ビル経営の悪化という点においては市役所が引責した形になっているものの、市や地元の商店街は、「雇用の創出も視野に入れた人々の暮らしやすい街づくり」という原点に回帰しつつ、さらなる先を見据えようとしている(庄司,2016)。経営学的に言えば、青森市はプランからドゥー、チェック、アクションの典型的な発展プロセスをひと通り経験しており、良い意味にせよ、悪い意味にせよ、「コンパクトシティの先駆者」として位置付けることができるだろう。

 一方、学術論文を検索してみたところ、日本における最大の学術論文データベースJ-STAGEによれば、「青森」と「コンパクトシティ」で最も古い論文は海道清信(2001)による研究であった。この論文は欧米で起きている「コンパクトシティのパラドックス」を検証するために、日本の49都市を事例として、人口密度と地域生活施設へのアクセスしやすさの相関分析を行ったものである。「パラドックス」とはこの場合、人口密度が高くなって過密や混雑によるマイナスの影響が生じる現象を意味しており、いわばコンパクトになればなるほど不便になる負の現象を見出そうとしている。結論として海道は、交通関係やコンビニなど市場志向の指標では人口密度との相関が認められる一方で、公園、集会所では認められず、こうした公的性格の施設での立地政策が重要であるとしている。青森市の位置付けとしては、金沢市、福井市、秋田市とともに、住宅規模が大きくアクセスもやや良い北陸・東北の都市群に含まれるとした。この観点からすれば、青森が手掛けた「アウガ」ビルは民間事業での手痛い経験から、「公的性格の施設での立地政策」(海道,2001)に回帰しつつあると解釈することができる。

青森駅前のアウガビル(2018年2月)

「歴史的制約」をうまく活かした弘前市

 弘前市では、弘前藩(通称、津軽藩)の城下町として都市構造に「歴史的制約」を受けながら、明治時代後半の1896年に東北地方北部を管区とする師団駐屯地が配置されることで都市化が進んだ。戦後もこうした城下町と師団駐屯地を中心としながら市街地の拡大が進み、軍用地だった場所は学校や国立病院等に転用されて中核的な都市施設となった。戦後には境界の変更により市域自体も拡大するのだが、主な人口増加は1930年から終戦の間に既に起きており、当時の都市化過程に対して軍用地の配置が大きな影響を与えたことが知られている(横尾,1987)。北西部に位置する城下町周辺の旧市街とともに、南東部に位置する教育施設と医療厚生施設群が核となり、戦後の都市化を促したのだと考えられる。
 青森が弘前藩の港町として成立した歴史を有することとは対照的に、弘前市は上記に見たように、城下町あるいは政治都市としての特徴が顕著である。古い地名からみれば、弘前が「中津軽」、青森が「東津軽」、黒石が「南津軽」と称するように、津軽地方の中心地は弘前であり、国立大学や国立医療機関の立地があることもこの歴史的な経緯を象徴している。
 青森と同様に、弘前とコンパクトシティで検索したところでは、北原による2003年の「街なか居住」研究が最も古い文献となっている。北原はこの研究以降も「街なか居住」に関する多くの論考を出しているが、繰り返し「単純に中心部の集合住宅と郊外住宅地の戸建て住宅とを対象とした住み替え施策で対応できるものではない」ことを主張している(例えば、北原,2012)。いわゆるコンパクトシティが、単なる中心部の再開発事業と郊外からの住み替えで論じられるようなものではないことを最も早くから主張し、とりわけ「住民が主体となって地域をマネジメントしていく発想があって初めて,郊外住宅地の持続可能性を議論することができ,それこそが真のコンパクトシティ」であると断じている点は示唆に富む。
 2017年に策定された弘前市立地適正化計画では、都市機能誘導区域の中心地区と地域拠点において、それぞれ「生鮮食品を扱う店舗(1,000㎡以上10,000㎡以下)」を組み込んでいることが特徴の一つであり、「街なか居住」の考え方が色濃く反映されているものと思われる。弘前市は「コンパクトシティ+公共交通ネットワーク+スマートシティ」を謳っているように、青森市のように前面にコンパクトシティを打ち出しているわけではないが、縮小都市としての課題の解決のためにいくつかの核となる施設整備を行っている。まちなか情報センターはその象徴的存在であろうが、旧弘前城址と師団軍用地のちょうど中間地点となる位置にあることが重要であり、弘前の都市化過程における2つの核をちょうど結節させる場所に設けられている。1927年に開業した弘前駅や1952年に開業した中央弘前駅らも、こうした2つの歴史核の中間的位置にあるとも言え、城下と師団に加えた3つ目、4つ目の都市核となって、バランスの良い一体的な都市基盤となっている。

 以上のように、人口減少や経済動向から大きくみれば同等の文脈にあるのは明らかであるものの、都市化過程の歴史的文脈において青森と弘前は当初から大きな差異を有しており、縮小対策や対策の効果という観点でも性格の異なる事例となっている。

<文献>

・朝日新聞「遅れる市街地開発(100年目の県都 青森市長選を前に:上)」1997年4月11日付(青森版)
・海道清信(2001)「人口密度指標を用いた都市の生活環境評価に関する研究 交通生活及び徒歩圏の地域生活施設を中心に」都市計画論文集36巻、pp.421-426 ・北原啓司(2012)「地方都市における「街なか居住」実現に向けた基礎的研究 : 高齢社会対応の新たな集合住宅施策の必要性と可能性」学研究費補助金研究成果報告書
・北原啓司(2012)「コンパクトシティにおける郊外居住の持続可能性とは」住総研研究論文集、38巻、pp.23-34
・庄司里紗「コンパクトシティはなぜ失敗するのか 富山、青森から見る居住の自由」Yahoo!ニュース、2016/11/8(火)配信
・弘前市「弘前市立地適正化計画」2017年3月31日
・横尾実(1987)「弘前の都市構造への歴史的制約」東北地理39巻4号、pp.302-315

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